担当教科について
君たちの世の中の見え方ってヤツを僕が変えてあげよう
国語 / 本間 純一先生
-Q1 担当教科に興味を持ったきっかけを教えてください。
「君たちの世の中の見え方ってヤツを僕が変えてあげよう」
高校時代の恩師(国語の先生です)は、高校最初の授業でいきなりそんなことを僕たちに言いました。「何言ってんのこの人??」とあっけにとられる僕たちのことなどお構いなく先生は、矢継ぎ早に「知識と教養を持つ者が見ている世界とそれを持たぬ者が見ている世界はまるで違う、君たちは見てみたくはないか、未だ見ぬ新世界を」と畳みかけてきたのです。「なぜ勉強しなければならないのか?」などといった根源的な問いを突き詰めるわけでもなく、ただただくすぶっていた当時の僕にとって、この先生の言葉は実に衝撃的でした。先生の言葉は、それまで聞かされてきた「人はなぜ学ぶのか」という問いのどの答えよりも魅力的であり、何より僕にとって一番しっくりくるものだったのです。「世界を一変させるため」に学ぶ、「未だ見ぬ新世界を見たいから」学ぶ、僕はこのときから今に至るまで、一貫してそのことを目的として「学ん」できました。そして教える側に立っている今、教え子にもそのように「学ぶことの意味」を語っています。
さてこの先生の言葉には続きがあります。それは、次の通りです。
「世の中にあまたある学びの場において、もっとも世界が変わったと実感できるのは、何を隠そう、国語の授業である。」
「な~んだ、単なる宣伝かよ~」と笑いに包まれる教室の中、僕はクラスメイトと笑いながら、一方で先生の言葉の真偽に思いをはせていました。「国語って本当にそんな力あんのか?」と。以上が、僕が担当教科「国語」に興味を持ったきっかけの話です。
-Q2 担当教科の魅力を教えてください。
先生となった今、僕は先述の恩師の言葉をほぼ完コピして、常々生徒に国語の「スペシャル感(=魅力)」を説いています。恩師の受け売りを語った後、僕がこれまで語ってきた国語の魅力の一部をここにご紹介します。
【現代文】たとえば評論文。評論文を読むと、この世界の成り立ちがわかる。成り立ちがわかれば世界の見方がわかる。もちろんその見方は一つではないことも、そして見方を変えれば世界の見え方自体が一変するということもわかるはずだ。たとえば小説。小説を読むと、僕たちにはこの世界の真実がみえてくる。この世界には言葉よりも大切なものがあるということ、また逆に言葉でしか伝えられないものがあるということ。自分とは絶対にわかりあえない他者がこの世界にはたしかに存在するということ。人は結局他者に認めてもらいたい生き物なんだということ…。わかっているようで決してわかっていなかった真実がそこにあるのが小説だ。
【古典】古典を読めば、実は「今」がわかる。たとえば桜をみて感じる感情とか、片思いに悶々とする感じとか、イケメンに感じるいいようのない殺意とか…。僕たちが「今」感じるものすべてが古典にはある。今に脈々と連なる普遍的なモノの源流をたどる旅、古典をそういう風にとらえることも可能だ。
国語 / 本間 純一先生